【所感】世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方
ワークをやりつつ読み進めていますが、「自分」というものを深く掘り下げ、考え過ぎたことで頭が痛くなりました。
まだCAHPTER7の「本当にやりたいこと」探しの途中ではありますが
ここまで読んだ所感を整理したいと思います。
著者・八木さんについて
いきなり余談ですが、著者・八木仁平さんは早稲田大学の出身ということで、親近感が沸きます。
こういう気持ちは、本の内容を自分ごと化して読むことが出来るのでとても良いですね。
さて、彼の経歴を見ると、大学生の頃からブログでそれなりの収益を得ていたようで、卒業後はそのまま独立、一度も企業勤めを経験したことがないようです。
ブログで生計を立て、好きなことを発信して生きていくなんて自由気ままで正直羨ましく思います。
そんな彼でも鬱状態になったことがあると言います
原因はブログの収益を追い求めるあまり、自分の本心を見失ってしまったことだそうです。
私からすれば羨ましい限りの生活でも、自分のやりたいことと違うことをし続けてしまえば精神が削られるのですね。
この件だけでも、「なりたい姿」のみを目指すことの危険性が分かります。
「自由気ままな状態」のみを目指してしまうと、おそらくどこかで行き詰るのでしょう。
やはり、自分の好きなこと・やりたいことだと感じられる何かを探すことが、今感じている閉塞感や仕事への拒否感を良いものへと変えてくれるのかもしれません。
思考の癖
また、本書を読み進めていく中で自分の中の「こうでなければ」や「こうあるべき」といった思い込みが如何に多いかを思い知らされました。
一例を挙げると、
・早稲田大学を出たのだから、有名な企業に入らなければならない
・将来のために貯金をしなければならない
・一つの企業に勤めなければならない
・やりたくない仕事でも続けなければならない
また、周囲と比較してしまう癖も判明しました。
この場合の周囲とは、具体的な誰かではありません。世間や世論といった程度のものです。
「他の人より安定した仕事なんだから」「他の人より仕事も忙しくないし」「他の人はこの程度で根を上げたりしてないし」
「周囲」が平気だからといって、自分が無理だと言ってはいけないなんてルールはありません。
しかし同調と共感が特技の私は、周りがしていないことを自分が進んでするのにとても勇気が要ります。
「本当にやりたいこと」が見つかった暁には、自分のいまの環境に対して、幻の周囲の声や自分の思い込みに惑わされることのないよう、NOを表明する覚悟が必要になるでしょう。
「将来のために」という罠
こんなデモデモダッテな私に、非常にシビれる一文がありました。
「いつまで将来のために選択肢を残し続けて生きるのか」
私は自分の定年後、(恐らく私たち世代が企業勤めの定年を迎えるのは70歳以降でしょうね) 体力が衰え、体に不調を来しながらもお金と時間のある自分を想像して、ゾッとしました。
きっと現役時代の私が恋い焦がれた自由な時間、多様な選択肢を前に、「やりたいことが分からない」だの「やりたいことはあるけど時間が足りない」だの「もっと若いときに、挑戦していれば」と考えるに違いないからです。
私たちは学校教育で、良い点数を取ること、少しでも良い学校に行くことを求められたと思います。
それは将来の自分へ選択肢を増やすためだと教えられました。
偏差値の高い学校に行けば、自分のやりたいこと・選択肢が広がるのだと…
当時から小学生ながらにマセていた私は
「将来の夢なんて下らない。夢を叶えられるのはごく僅かな選ばれた人たちで、ほとんどの人はただのサラリーマンで終わるのだ。それなら、選択肢を増やすために良い大学を目指そう」と、自分の進路にレールを敷きました。
選択肢を増やす、という論理は当時の私には納得感があり、そのために勉強することは苦ではありませんでした。
仕事選びの失敗
就職活動でも、同じ論理で進路を決めました。
大学卒業後、次のステージでの選択肢を増やすのは「偏差値」ではなく「年収」と「時間」だと感じました。
「やりたいことなんて分からないし、これから先にやりたいことが出てくるかもしれない。その時のために、選択肢を残せるようにそこそこ年収が良くて、自分の時間が取れるところに就職しよう」
この考えは、正直そこまで間違っていないと思います。
いわゆるホワイト企業への就職は、目指すものとして間違いではないはずです。
ただ、私は間違いを犯しました。
年収は定量的なものですが、時間は定量的な指標ではありませんでした。
例えば、同じ年収でも仕事にやりがいや自身の成長を見出している人にとっては仕事の時間は辛いものではないでしょうし、余暇の時間も充実しているのでしょう。
しかし私のようにやりがいも成長も、今後の自分の姿も見出せない人にとって、仕事の時間はただ自分の精神を消耗するもので、余暇は削られた自分の精神を回復することに腐心するものになります。
私には「どんな時間を過ごすか」と言った観点が抜けていたのです。
「やりたいこと」とは
「自分の本当にやりたいことは何だろう」なんて悩めるのは、きっと恵まれているのでしょう。
中には過剰なプレッシャーや長時間労働に潰されている人もいるはずで、そうした人たちは「自分のやりたいこと」なんかよりもっと危機的で緊急的な悩みを抱えているはずです。
自分のやりたいことについて悩める程度には余裕のある環境に今居られるのは、自分が選択肢を残すという方向性に縋って生きてきた成果と言えるかもしれません。
その点においては自分は成功したかもしれません。
ここまで書いてきて、さらに私の思い込みに気がつきました。
それはやりたいこと(仕事)はずっと同じ・継続性のあるものでなければいけないとの考えです。
これは就職活動における企業面接や面接対策の弊害だと思います。
私たちは就職活動において、継続的な経験を様々な角度から問われます。
学生時代に継続的に注力したことが、入社後にやりたいことと結びついていると尚高く評価されます。
一方で、継続的な経験がなく「やったことないけど、ちょっと興味があります」という学生は、面接官に評価してもらえません。
いくらそれが本音であってもです。
面接官側の事情も分かります。
採用にはかなりコストがかかりますから、学生のミスマッチをなるべく防ぐ必要があります。
「興味あったからこのポジションを希望して見たけど、やって見たら違ったので辞めます」は、企業にとっては大損失です。
だからこそ企業側は継続して何かに取り組んできた経験を求めるし、
大半の学生は、これまでの生活の中から選び出した経験を、無理やり仕事に結びつけるのです。
時代の変化とキャリア教育の必要性
これを解消するには、欧米のようにインターン制度を拡充して学生のうちから仕事へのビジョンを養うか、
義務教育課程でキャリア教育を取り入れるべきだと思います。
勉強不足ゆえ、昨今の学校教育事情は分かりませんが、
私の経験で言えば、キャリア教育を受けたことは一度もありません。
前述した通り、学校教育では進路の考え方について、「選択肢を増やすため」と教えられてきました。
選択肢を増やすことの本来の目的である「自分のやりたいこと」の考え方・見つけ方については、教えられることがありませんでした。
良い学校に行けば将来安泰という従来の価値観の影響であるとも言えますし、「自分のやりたいこと」は自分の中にあって、わざわざ探したり見つけ方を教えるものではないという考えがあるのかもしれません。
ともかく、表面上は「自分の夢を叶えましょう」と言いつつ、本心では夢の実現など露も考えていない、そんな教師・大人たちの思いを汲み取ってしまったのが、私のようにやりたいことが分からない人間なのかもしれません。
ここ20年の技術進歩とそれに伴う社会の変容は、一体誰が予想できたでしょう。
ちょっと前までは聞いたこともないような事業が台頭し、その反面で従来は安泰と捉えられていた企業が衰退していきます。
世界に名だたるあのトヨタですら、「終身雇用を実現するのは難しい」と口にします。
だからこそ、義務教育課程でのキャリア教育は必要で、自分と向き合い、やりたいことを考える力を養うべきなのだと思います。
変化の激しい時代に、自己を肯定しながら生きていく力を身につけるのは重要なはずです。
そしてこれは、子供達世代だけでなく今まさに働いている社会人も受ける必要があるのではないでしょうか。
実は入社後の研修ではそう言ったキャリア教育を受けることができました。
しかしあくまで研修の一環であるし、会社という時間・空間であるため、ワークの内容も自ずと「この会社でどんな自分を実現するか」というように、会社に軸足を置いたものになってしまいました。
これでは本心から自分と向き合ったとは言えません。
そう言ったしがらみや先入観を取り除ける環境で、自分と向き合う時間や機会が、これからを生きていく社会人には必要だと思います。